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上からの雲2

 

小学校4〜5年生の時、商店街の上に自宅があり、ある時2階の窓から商店街を行き交う人々をただ眺めていました。

買い物をして店先でやり取りする人々を見ながら、世間話をしている人々の雑多な声をただ聞いていました。

そしてふと見上げると、青空と静かに流れる雲達がただそこにありました。

すると突然、考えるでもなく一つの疑問がはっきりと浮かんで来たのです。

 

 

「この世界は、何故あるのか? 世界があるとは、どういう事なのか?」

 

 

その疑問と共に、しばらくの間、世界という現実味というか臨場感がとても希薄になったのを今でもはっきりと覚えています。

 

世界が在ることそのもの、私が在ることそのものの不可思議さの一撃でした。

 

大人になって行くにつれ、この在ることそのものの上で起こっている、あらゆる思考、行為、出来事に私達は魅了されて行きます。

 

何か、とても大切なものが忘れ去られて行っている事も知らずに・・・

今、あなたが、人生の途上で何かが欠けている、何か虚しいと感じているのなら、

その答えは、在ることそのものの不可思議さの中に、きっとありますよ。

 

頭は空っぽにして、心をおもいっきり開いて、この不可思議さにしばし寛いでみて下さい。

 

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小さい頃から、将来やりたい仕事はなぜか決めていました。

 

お医者さんになりたいという気持ちは、ずっと変わる事なく、迷った事は一度もありません。

 

親は電気屋さんをしていて、親戚にも医者はおらず、動機を尋ねられるといつも答えるのは、幼い頃から母が身体が弱くてよく入院をしていた事や、自分自身が13歳の時に肝臓を患い3ヶ月以上入院していた事です。

 

でも本当は、生まれる時にすでに決めてきていたと感じています。

 

しかし、医者になってからは、迷いと葛藤の連続でした。

 

今振り返ってみると、外科医の時には身体という物質的現実と向き合って来ましたし、心療内科医の時には人間の心と身体の複雑な相関関係に向き合ってきました。そして、西洋医学を離れてからは、人間の心身のより精妙な仕組みや構造の不思議さにのめり込んで行きました。

 

潜在意識、無意識を含めて、心の何層にも渡る因果の謎解きは、とても面白く感動的でもあり、夢中になっていました。

 

おそらく、この世界は、いくらでも次から次へと私達を魅了させ続ける謎解きを提供し続けることでしょう

 

この世界とは、私の外に広がる物質世界と私の内に広がる心の世界の両方です。

 

私達は、この世界に善かれ悪しかれ魅了され続けています。

 

私の内側,外側という世界に魅了され続けている!

 

ポジティブだろうがネガティブだろうが、魅了されていることに変わりはありません。

 

世界のあらゆる内容から、ちょっと目を離して、私の外側と内側という世界に魅了されている事に気づいてみて下さい。

 

うまくいけば、ちょっと不思議な感覚になれると思います。

 

 

ブログ狸

 

天才バカボンのパパは、何といっても最強ですよね。

太陽が西から昇って、東に沈んでも「これでいいのだ!」

たとえ何が起ころうが、起こるまいが「これでいいのだ!」

あなたは、どうですか?

本気で、心の底からそう言えますか?

 

悟っていようと、迷っていようと、大差ない!

 

「これでいいのだ!」

 

どうです?最強でしょ?(笑)

 

さて、気づいているのは私ではないですが、思考してるのも私ではありません。

だから放っておけばよいのですが、なかなかそうはいきませんよね。

私は、べったりと思考に張り付いていますから、目が離せないんです。

 

よく観察していると分かりますが、思考はポジティブとネガティブの二極を落ち着きなく行ったり来たりしています。まるでシーソーの両極を行ったり来たりと飛び跳ねるウサギの様なものです。

 

飛び跳ねるパターンや、どちらのサイドにより長くいるか程度の違いはあれど、大差ありません。

 

思考ウサギは、どう頑張ってもシーソーの両極にしか飛び降りれません。シーソーのバランスを支えている真ん中の支点には居られないのです。

 

ちょっと実験してみて下さい。何であれ、ポジティブな事とネガティブな事を全く同時に考えてみて下さい。

どうですか?  できましたか?

どんなに速く切り替えても、時間差ができてしまいますよね?

 

 

シーソーの両極を支えている真ん中の支点の一点は、両極を同時に見切っている特異点なので、 思考ウサギはこの特異点には飛び降りれないのです。

 

ちなみに、この特異点のことを僕は「バカボンのパパポイント」と呼んでいます。

 

 

今日は、このバカボンのパパポイントへの落下方法をお伝えします。

 

えっ?!落ちたくない?

分かりますよ〜。落ちたらまともに生きて行けなくなりそうですもんね。(笑)

バンジージャンプより怖いですよ。命綱が切れちゃうかもしれないので。

 

なので、覚悟をするために、少し間を空けた方が良さそうな気がして来ました。

 

しばらく時間を取って、このまま思考ウサギにべったり張り付いたまま、ポジティブとネガティブの両極を行ったり来たりし続けたいかどうかを感じてみて下さい。

それではまた。

 

 

 

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なんであれ何かに気づく時、気づく側が主体としての「私」、気づかれる対象が客体としてのあらゆるモノ、コト、人、状況。

 

主体と客体が分離していて、主体が客体に気づき、認識しているというのが、二元対立の世界観です。私達は、何の疑いもなくこの世界観の認識構造の中で生きています。

 

非二元の世界観では、この主体と客体は分離していません。よ〜く観察したら明らかですが、主体と客体は、一体として同時発生しています。主体と客体のどちらかが消え去れば、もう片方も消え去ります。

 

主体に与えられた感覚のネーミングが「私」、そして客体は森羅万象、無数のネーミングが与えられています。

 

ある時、主体の「私」は、覚醒・悟り・真我・非二元を概念として認識します。つまり、覚醒・悟り・真我・非二元を分離した客体として認識してしまったという事です。

 

そこから、私は覚醒したい、悟りたい!という欲求が生まれて探求が始まります。

 

中には、最初に何らかの一瞥体験があって、一体自分に何が起きたのか?と思って、 探求が始まるケースもあります。

 

真実が知りたい、真の自由が欲しい、無条件の愛を感じたい、神と一体になりたい、等々・・・

 

どんな言葉を使おうと同じです。

 

何が同じかというと、主体の私が、客体のそれに気づいて、それを求めるという構造です。

 

まずは、何を求めているのであれ、この認識の構造の中に囚われていることを明瞭に見抜いて下さい。

 

この構造自体が夢であり、幻想なのです。

 

この構造の中にいながら、覚醒!夢から覚める!というのは、実はまだ、夢から覚める夢を見ているに過ぎないという事です。

 

そこで、探求の角度を変えてみて下さい。

 

「私が、何かに気づいている。」から、「気づきが、私感覚(主体)と何かの対象(客体)を同時に生じさせている。」へ。

 

 

 

 

 

 

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今、ここで、君の身体の只中で、ただ幸せでいてごらん。

「ただ」とは、何の理由もなくということ・・・

だから、幸せでいるための原因を探したり、作ったりする必要はないんだよ。

もし君が、幸せでいられない理由で頭がいっぱいなら、それこそ、

何の理由もなく,ただ幸せでいることが出来ると知るチャンス。

幸せとはこうあるべき!とか、条件を付けた閉じた想いや望みは、

叶わないかもしれない。

でも、その想いの背後に完全に開かれた、とても静かで穏やかな幸せには、

いつでもどこでも、ふれることができる。

君が今、たった今、その気になればね!

ここでの大切なコツはね、ベリ〜ファースト! スピード感さ。

何故だかわかるかい?

でも・・・、だって・・・と、幸せに抵抗する思考があっという間にやって来て

君を理屈でガンジガラメにしてしまうからさ。

思考よりも速く、たった今、ただ幸せを感じちゃったもん勝ちなんだ。

だから、理由を考えたり引っ張り出してるひまなんてないのさ。

失敗しても心配いらないよ。毎瞬、毎瞬、チャンスだらけだから。

あまりにもチャンスだらけだから、いつでもいいや〜って思ってしまい、

いつまでたってもやらない!っていうのが、逆説的わなだっていう事を

君は知っているかい?深いだろ〜?!

だったら、君はいつやるの? 今でしょ!(笑;古いけど本当のこと)

 

「ただ」こそ、幸せを開く鍵だって分かったかな?

 

どうやって?と問う前に、ただ幸せでいてごらん。

上手くできない!と言う前に、ただ幸せでいてごらん。

幸せになりたいと言う前に、ただ幸せでいてごらん。

 

 

 

 

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何故、こんなにも生きづらいのだろう?

生きる事が、どこか虚しい。

人間関係に行き詰まっている。

死の恐怖を越えて、平安に生きるには、どうしたらいいのだろう?

何の恐れもなく、安らかに喜びと共に生きることは、本当に可能なのか?

などなど・・・

すべての葛藤と苦しみは、源をたどるとただ一つの理由に行き着きます!

 

それは、「私」とは何か?を実は知らないという事です。

 

もっと言えば、知らないという事を知らずに、一度も疑う事なく当然のように心身を「私」として生きているが故に、様々な葛藤と苦しみを味わうのです。

 

答えを知る必要はありません。

 

ただ、「私」とは何か?を実は知らないのだ!という事を

心を開いて素直に受け入れてみることです。

 

そして、この問いと共に心を鎮めて行くと、静かなる心という贈り物を 皆さんは自分の内面に発見するでしょう。

 

静かなる心とは、何があっても、どんな状況でも、ゆとりがあり、落ち着いている

静寂の意識のことです。

 

これがどういう事なのか、分かりますか?

 

もし分かったら、それはささやかな贈り物どころではない!

 

ということに、きっと驚くでしょう。

 

ですからどうぞ、この静かなる心という贈り物を受け取って下さい。