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伊東充隆プロフィール
伊東充隆(いとうみつたか) / i Medic & Art 代表
1960年東京生まれ。東邦大学 医学部卒業。
東京女子医科大学総合腎臓病センター 外科、浜松医科大学 第二内科(心身医学)研究生を経て、西洋医学以外の様々な代替療法(セラピー、ヒーリング等)の修得、研究のため渡印。
帰国後、1997年より新世代医療研究所を開設。正常分子栄養学に基づく栄養療法とEsogetics理論を基にした光のセラピーとカウンセリングの統合医療を展開。
2005年からはi Medic & Artを開設し、全人的(身体ー心理ー社会ー実存)視点からバランスを支える支点磨きと意識の変容(「かるみ」のアート)とをメインテーマに多方面で教育・講演活動も行っている。
i Medic & Artについて
i Medic & Art は、全人的ウェルネス、即ち身体的(physical)、心理的(mental)、社会的(social)、実存的(existential)な全ての側面における真のウェルネスの実現を目指しています。
そのエッセンスは、青空(意識)を軸にした雲(心身)との調和のアートにあると考えています。
人は誰もがこの四つの側面の全てにおいて、満たされ、幸せになりたいと思っているはずです。しかし、自分の外側の世界も内側の世界も決して留まる事なく、ポジティブとネガティブの二極性の間で変化し続けています。
多くの人はネガティブを嫌い、ポジティブだけを追い求めがちですが、そうはいかない事は人生経験を積めば積む程、深く理解されてくるものです。実は、この世界はポジティブとネガティブが完璧にバランスされているからです。
ポジティブとネガティブを両極に持つシーソーを思い浮かべるならば、このシーソーはこれを支える支点を中心にして止まる事なく揺れ動き続けています。
ポジティブに傾い たりネガティブに傾いたり、その傾きやズレがあらゆる現象として現れるので、どうしてもそれが気になってしまいますが、この揺れ動きをギクシャクした不快 なものではなく、ゆったりとした心地よいものにするコツは、ポジティブとネガティブの両極を支えている不動の支点に目を向け、支点を磨いて行くことです。支点は、ある意味で私達の意識の「視点」でもあります。
更に、この支点(視点)が打たれる前には、二極性は無く、主体(見る者)も客体(見られるもの)もありません(非二元)。
この支点(視点)が打たれる前を「青空(意識)」と表現してみたいと思います。そして、視点が打たれた途端にダイナミックに変化し続ける「雲(心身)」と雲同士の関わり(社会)が生まれます。
i Medic & Art は、身体ー心理ー社会ー実存を支えている支点(視点)への気づきと支点磨きをサポートし、更に視点が打たれる前の青空へと意識の軸を変容するための場です。
それが、「青空と雲」のアートです。
青空と雲のお話〜Prelude〜
小学校4〜5年生の時、商店街の上に自宅があり、ある時2階の窓から商店街を行き交う人々をただ眺めていました。
買い物をして店先でやり取りする人々を見ながら、世間話をしている人々の雑多な声をただ聞いていました。
そしてふと見上げると、青空と静かに流れる雲達がただそこにありました。
すると突然、考えるでもなく一つの疑問がはっきりと浮かんで来たのです。
「この世界は、何故あるのか? 世界があるとは、どういう事なのか?」
その疑問と共に、しばらくの間、世界という現実味というか臨場感がとても希薄になったのを今でもはっきりと覚えています。
世界が在ることそのもの、私が在ることそのものの不可思議さの一撃でした。
大人になって行くにつれ、この在ることそのものの上で起こっている、あらゆる思考、行為、出来事に私達は魅了されて行きます。
何か、とても大切なものが忘れ去られて行っている事も知らずに・・・
今、あなたが、人生の途上で何かが欠けている、何か虚しいと感じているのなら、
その答えは、在ることそのものの不可思議さの中に、きっとありますよ。
頭は空っぽにして、心をおもいっきり開いて、この不可思議さにしばし寛いでみて下さい。
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世界に魅了されているということ
小さい頃から、将来やりたい仕事はなぜか決めていました。
お医者さんになりたいという気持ちは、ずっと変わる事なく、迷った事は一度もありません。
親は電気屋さんをしていて、親戚にも医者はおらず、動機を尋ねられるといつも答えるのは、幼い頃から母が身体が弱くてよく入院をしていた事や、自分自身が13歳の時に肝臓を患い3ヶ月以上入院していた事です。
でも本当は、生まれる時にすでに決めてきていたと感じています。
しかし、医者になってからは、迷いと葛藤の連続でした。
今振り返ってみると、外科医の時には身体という物質的現実と向き合って来ましたし、心療内科医の時には人間の心と身体の複雑な相関関係に向き合ってきました。そして、西洋医学を離れてからは、人間の心身のより精妙な仕組みや構造の不思議さにのめり込んで行きました。
潜在意識、無意識を含めて、心の何層にも渡る因果の謎解きは、とても面白く感動的でもあり、夢中になっていました。
おそらく、この世界は、いくらでも次から次へと私達を魅了させ続ける謎解きを提供し続けることでしょう。
この世界とは、私の外に広がる物質世界と私の内に広がる心の世界の両方です。
私達は、この世界に善かれ悪しかれ魅了され続けています。
私の内側,外側という世界に魅了され続けている!
ポジティブだろうがネガティブだろうが、魅了されていることに変わりはありません。
世界のあらゆる内容から、ちょっと目を離して、私の外側と内側という世界に魅了されている事に気づいてみて下さい。
うまくいけば、ちょっと不思議な感覚になれると思います。
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思考ウサギを黙らせる〜これでいいのだ!
天才バカボンのパパは、何といっても最強ですよね。
太陽が西から昇って、東に沈んでも「これでいいのだ!」
たとえ何が起ころうが、起こるまいが「これでいいのだ!」
あなたは、どうですか?
本気で、心の底からそう言えますか?
悟っていようと、迷っていようと、大差ない!
「これでいいのだ!」
どうです?最強でしょ?(笑)
さて、気づいているのは私ではないですが、思考してるのも私ではありません。
だから放っておけばよいのですが、なかなかそうはいきませんよね。
私は、べったりと思考に張り付いていますから、目が離せないんです。
よく観察していると分かりますが、思考はポジティブとネガティブの二極を落ち着きなく行ったり来たりしています。まるでシーソーの両極を行ったり来たりと飛び跳ねるウサギの様なものです。
飛び跳ねるパターンや、どちらのサイドにより長くいるか程度の違いはあれど、大差ありません。
思考ウサギは、どう頑張ってもシーソーの両極にしか飛び降りれません。シーソーのバランスを支えている真ん中の支点には居られないのです。
ちょっと実験してみて下さい。何であれ、ポジティブな事とネガティブな事を全く同時に考えてみて下さい。
どうですか? できましたか?
どんなに速く切り替えても、時間差ができてしまいますよね?
シーソーの両極を支えている真ん中の支点の一点は、両極を同時に見切っている特異点なので、 思考ウサギはこの特異点には飛び降りれないのです。
ちなみに、この特異点のことを僕は「バカボンのパパポイント」と呼んでいます。
今日は、このバカボンのパパポイントへの落下方法をお伝えします。
えっ?!落ちたくない?
分かりますよ〜。落ちたらまともに生きて行けなくなりそうですもんね。(笑)
バンジージャンプより怖いですよ。命綱が切れちゃうかもしれないので。
なので、覚悟をするために、少し間を空けた方が良さそうな気がして来ました。
しばらく時間を取って、このまま思考ウサギにべったり張り付いたまま、ポジティブとネガティブの両極を行ったり来たりし続けたいかどうかを感じてみて下さい。
それではまた。
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気づいているのは、「私」ではない。
「私」が、なんであれ何かの対象に気づいていると、当たり前のように思っていませんか?
対象とは、モノ、コト、人、状況、そして思考や感情も含めて、認識できるすべてのことです。
本当は、そうではなかったら、どうしますか?
悟り、真我、非二元を探究しているならば、是非自分自身でこの気づきの基本的な構造を疑ってみて欲しいと思います。
さらに、悟り、真我、非二元に興味ないとしても、確固たる「私」がいて人生を生きている中で、
なにか虚しい感じがしていたり、何かが欠けていると感じていたり、無力感に押しつぶされそうだったり、
生きることそのものが苦しいと感じているならば、やはり一緒に疑ってみて下さい。
「気づき」って言うと、なんだか大それたものの様に
聞こえるかもしれませんが、まったく違います。
誰もが皆、気づきから離れたことなどありません。
本当です!
ただ、それがあまりにも当たり前で単純なことなので、
そうとは思えない人が多いだけです。
私達は、気づきの対象であるモノ、コト、人、状況などに
あまりにも価値や意味があると思い込んでいるので、
それらに囚われてしまっているのです。
「私」が、あらゆる対象であるモノ、コト、人、状況に気づいていると勘違いしているので、「私」はそれらが欲しくなったり、抵抗したりします。
こうして、幸・不幸の物語が始まります。
そして、どの物語の中にも、同じだけ「気づき」はあります。
悟り・真我・非二元も、対象として「私」がそれを知り、気づこうと欲し、
探究が始まります。
私が何かに気づいていると思い込んでいる限り、この探究は終わりません。
何か、おかしいと感じませんか?
実は、気づいているのは、「私」ではないとしたら?
今、どんな状況であれ、何を考えていようとも、気づいている全ての対象を
気づこうとしなくても、すでに気づいている何かがありませんか?
しばし、それに意識を合わせてみて下さい。
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メディア情報
無心の一呼吸
たったの一呼吸、無心になってみましょう。
私達は、一日中呼吸をしていますが、呼吸だけを意識することはほとんどありません。
呼吸が苦しい時か、ヨガ、気功、瞑想などの修練をしている時くらいでしょうか。
私達の内面、マインドの状態と呼吸とは、密接に連動しています。
なので、禅では坐禅を組む時、心を鎮める為にまず調息(息を整える)をします。
また、修練としての呼吸法には、様々な方法があります。
しかし、たったの一呼吸の中で、実はどれだけの事が起きているのか、どれだけの可能性とパワーが秘められているのか・・・知っていますか?
そういえば以前、14歳の少女がネットいじめをなくす為の斬新なアイデア、「Rethink」というシステムを開発したと、ネットのニュースで見たことがあります。
それは、送信者が人を傷つけるようなワードを入れて送信する時に、「本当に送りますか?」というメッセージを表示するシステムです。実験の結果、なんと93%の若者がその投稿を取りやめたといいます。
送信ボタンを押すか押さないか、そのほんの数秒、正に一呼吸で、その後起きうる様々な人生ドラマが変わり得るという事です。
逆に言うなら、それほど人はほぼ無意識に思考し、行為しているということが分かります。
過去の記憶に基づいて刺激ー反応し続ける機械のようなものです。故に、ほぼいつも同じ様な思考、行動パターンが繰り返される訳です。
貴方がもし、このような繰り返しの無意識パターンに飽き飽きしているのならば、全く新鮮な経験へと歩を進めたいのならば、無心の一呼吸の練習をし始めてみて欲しいと思います。
同じ繰り返すのならば、いつもの思考ー行動パターンよりも、無心の一呼吸を繰り返し練習して下さい。(笑)
何かふと迷った時、何かを選択する時、ちょっとした違和感を感じた時など・・・そのまま考え続けないで、ストップし、ただ呼吸と共に無心になってみるのです。無心は、時間の長さは重要ではありません。大事なのは深さです。だから、一呼吸で充分です。
しかし、初めは無心といっても浅いので、何も分からないでしょうし、ピンと来ないでしょう。それでいいのです。気にせず軽い気持ちで、ふと思いついた時に繰り返し練習して下さい。そのうちにどんどん深くなって行きます。
例えて言うなら、海で泳いでいて、波立ち続けている海面に顔を浸けることから初めて、徐々に海の底に向かって素潜りする練習をするようなイメージです。ちょっと潜った程度では、表面の波の力にもって行かれますが、深く潜れば潜る程、波の影響はなくなり静寂になって行きます。
Deep Blue のジャック・マイヨールのように、ある領域を越えると、もう海面に戻って来たくなくなるでしょう。
静寂を越えた、沈黙のみ!
沈黙に留まる者さえいません。
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吾唯足知
禅寺の庭には、よく写真にあるような蹲踞(つくばい)があります。水が溜まる様に掘られた中央の正方形の四方には、文字が彫られているのが見えます。
四つの文字は中央の正方形を共有し、上から時計回りに、「吾唯足知」と読む事ができます。
僕は、とてもお洒落なデザインに感心してしまい、いつか自分もこの蹲踞をお庭に置きたいと思っています。今のところ、置けるようなお庭はありませんが。(笑)
吾、唯足るを知る
これは、禅のとてもシンプルな教えです。ここで大事な所は、唯(ただ)ということです。
唯(ただ)とは、何の理由も原因もなくという意味。
足るを知るのに、なんの理由も原因もいらないよと、教えてくれている。
ひらたく言うなら、ただ幸せでいてごらん!それに気付いてごらんなさいと、教えてくれていると思います。
幸せになるのではありません。すでに幸せでいることに気付くということ。
私達は、それに気付いていないから、足りない、まだ足りないと自分の外にばかり意識を向けて、幸せになる原因をモノ、コト、人、状況に求めてしまうのですね。
ここから、人生のあらゆるドラマが展開されて行きます。得られる事も得られない事もある。たとえ得られても、すぐに失う恐れがやって来て、幸せは永続しない。だから、次々と求めざるを得なくなる。得られなかったら、更に不幸ですね。
インドの最古の聖典ヴェーダンダの知恵にも、同じ事を伝えている教えがあります。
理由のある幸せは、形を変えた不幸である。
ん〜っ、まさに。人生長く生きている人ほど、身にしみて分かる様な教えです。
さて、どうしたらその理由のない幸せ、唯足りていると感じられるのだろう?と、考えてしまいましたか?
どうしたら?という問いそのものが、すでに理由を探しているのです。
ですから、思考に着いて行っても、吾唯足るを知れません。
思考の流れに着いて行かず、逆にその源流を辿ってみて下さい。
焦らないで、何度でも何度でも、源へと意識を向け直して下さい。
するとそこに、こんこんと静かに湧きいずる幸せの泉があります。
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