タグ・アーカイブ: 唯吾足知
大阪 青空禅塾
開催に際しましては、十二分に感染症対策に配慮いたしますが、状況によっては変更や中止になる場合もございます。その都度サイトで情報を更新していきますのでご確認ください。
みなさまと静かに、楽しく、安心して寛ぐひととき、楽しみにしています。
[お問合せ&お申込み]
・メール:ami.takita@gmail.com
・携帯:080-1412-3882(田北)
・電話&ファックス:0742-36-3177(田北)
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532-0011 大阪市淀川区西中島6-5-3
(新大阪駅より徒歩9分、西中島南方駅より徒歩5分)

東京「青空禅塾」(4時間)
Aozora Zen
人生のあらゆる状況や出来事を〝問題〟に変えない生き方をしてみませんか?
心地よく座禅をしたり、気軽に質問をしたりして、対話を通してご自分のペースで青空意識(純粋意識)を感じ取り、自然に深めることができる場です。これまでの自分や世界に対する思い込みや錯覚に気づいて今にいる安心感や軽やかさ、自由さを実感していくライブ空間。4時間とたっぷり時間がありますので、普段の生活の中では感じにくい深い寛ぎを体験できると思います。
無限に拡がる青空にゆったり寛ぐひと時を是非ご一緒に。
変わることのない、失われない平安がいつもあったことに気づく。
みなさまとお会いするのを楽しみにしております。
開催に際しましては、十二分に感染症対策に配慮いたしますが、状況によってはオンラインへの変更や中止になる場合もございます。その都度サイトで情報を更新していきますのでご確認ください。
基本毎月第1日曜日に開催しております。
日程
♦東京はただ今お休み中ですが、
開催する時はこちらでお知らせいたします。
詳細はこちらをご覧ください
お申し込みはこちらから
[お問合せ]
・メール: yoyoa@mac.com
個人セッション
i Medic & Artについて
i Medic & Art は、全人的ウェルネス、即ち身体的(physical)、心理的(mental)、社会的(social)、実存的(existential)な全ての側面における真のウェルネスの実現を目指しています。
そのエッセンスは、青空(意識)を軸にした雲(心身)との調和のアートにあると考えています。
人は誰もがこの四つの側面の全てにおいて、満たされ、幸せになりたいと思っているはずです。しかし、自分の外側の世界も内側の世界も決して留まる事なく、ポジティブとネガティブの二極性の間で変化し続けています。
多くの人はネガティブを嫌い、ポジティブだけを追い求めがちですが、そうはいかない事は人生経験を積めば積む程、深く理解されてくるものです。実は、この世界はポジティブとネガティブが完璧にバランスされているからです。
ポジティブとネガティブを両極に持つシーソーを思い浮かべるならば、このシーソーはこれを支える支点を中心にして止まる事なく揺れ動き続けています。
ポジティブに傾い たりネガティブに傾いたり、その傾きやズレがあらゆる現象として現れるので、どうしてもそれが気になってしまいますが、この揺れ動きをギクシャクした不快 なものではなく、ゆったりとした心地よいものにするコツは、ポジティブとネガティブの両極を支えている不動の支点に目を向け、支点を磨いて行くことです。支点は、ある意味で私達の意識の「視点」でもあります。
更に、この支点(視点)が打たれる前には、二極性は無く、主体(見る者)も客体(見られるもの)もありません(非二元)。
この支点(視点)が打たれる前を「青空(意識)」と表現してみたいと思います。そして、視点が打たれた途端にダイナミックに変化し続ける「雲(心身)」と雲同士の関わり(社会)が生まれます。
i Medic & Art は、身体ー心理ー社会ー実存を支えている支点(視点)への気づきと支点磨きをサポートし、更に視点が打たれる前の青空へと意識の軸を変容するための場です。
それが、「青空と雲」のアートです。

思考ウサギを黙らせる〜これでいいのだ!
天才バカボンのパパは、何といっても最強ですよね。
太陽が西から昇って、東に沈んでも「これでいいのだ!」
たとえ何が起ころうが、起こるまいが「これでいいのだ!」
あなたは、どうですか?
本気で、心の底からそう言えますか?
悟っていようと、迷っていようと、大差ない!
「これでいいのだ!」
どうです?最強でしょ?(笑)
さて、気づいているのは私ではないですが、思考してるのも私ではありません。
だから放っておけばよいのですが、なかなかそうはいきませんよね。
私は、べったりと思考に張り付いていますから、目が離せないんです。
よく観察していると分かりますが、思考はポジティブとネガティブの二極を落ち着きなく行ったり来たりしています。まるでシーソーの両極を行ったり来たりと飛び跳ねるウサギの様なものです。
飛び跳ねるパターンや、どちらのサイドにより長くいるか程度の違いはあれど、大差ありません。
思考ウサギは、どう頑張ってもシーソーの両極にしか飛び降りれません。シーソーのバランスを支えている真ん中の支点には居られないのです。
ちょっと実験してみて下さい。何であれ、ポジティブな事とネガティブな事を全く同時に考えてみて下さい。
どうですか? できましたか?
どんなに速く切り替えても、時間差ができてしまいますよね?
シーソーの両極を支えている真ん中の支点の一点は、両極を同時に見切っている特異点なので、 思考ウサギはこの特異点には飛び降りれないのです。
ちなみに、この特異点のことを僕は「バカボンのパパポイント」と呼んでいます。
今日は、このバカボンのパパポイントへの落下方法をお伝えします。
えっ?!落ちたくない?
分かりますよ〜。落ちたらまともに生きて行けなくなりそうですもんね。(笑)
バンジージャンプより怖いですよ。命綱が切れちゃうかもしれないので。
なので、覚悟をするために、少し間を空けた方が良さそうな気がして来ました。
しばらく時間を取って、このまま思考ウサギにべったり張り付いたまま、ポジティブとネガティブの両極を行ったり来たりし続けたいかどうかを感じてみて下さい。
それではまた。
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(続)気づいているのは、「私」ではない。
なんであれ何かに気づく時、気づく側が主体としての「私」、気づかれる対象が客体としてのあらゆるモノ、コト、人、状況。
主体と客体が分離していて、主体が客体に気づき、認識しているというのが、二元対立の世界観です。私達は、何の疑いもなくこの世界観の認識構造の中で生きています。
非二元の世界観では、この主体と客体は分離していません。よ〜く観察したら明らかですが、主体と客体は、一体として同時発生しています。主体と客体のどちらかが消え去れば、もう片方も消え去ります。
主体に与えられた感覚のネーミングが「私」、そして客体は森羅万象、無数のネーミングが与えられています。
ある時、主体の「私」は、覚醒・悟り・真我・非二元を概念として認識します。つまり、覚醒・悟り・真我・非二元を分離した客体として認識してしまったという事です。
そこから、私は覚醒したい、悟りたい!という欲求が生まれて探求が始まります。
中には、最初に何らかの一瞥体験があって、一体自分に何が起きたのか?と思って、 探求が始まるケースもあります。
真実が知りたい、真の自由が欲しい、無条件の愛を感じたい、神と一体になりたい、等々・・・
どんな言葉を使おうと同じです。
何が同じかというと、主体の私が、客体のそれに気づいて、それを求めるという構造です。
まずは、何を求めているのであれ、この認識の構造の中に囚われていることを明瞭に見抜いて下さい。
この構造自体が夢であり、幻想なのです。
この構造の中にいながら、覚醒!夢から覚める!というのは、実はまだ、夢から覚める夢を見ているに過ぎないという事です。
そこで、探求の角度を変えてみて下さい。
「私が、何かに気づいている。」から、「気づきが、私感覚(主体)と何かの対象(客体)を同時に生じさせている。」へ。
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気づいているのは、「私」ではない。
「私」が、なんであれ何かの対象に気づいていると、当たり前のように思っていませんか?
対象とは、モノ、コト、人、状況、そして思考や感情も含めて、認識できるすべてのことです。
本当は、そうではなかったら、どうしますか?
悟り、真我、非二元を探究しているならば、是非自分自身でこの気づきの基本的な構造を疑ってみて欲しいと思います。
さらに、悟り、真我、非二元に興味ないとしても、確固たる「私」がいて人生を生きている中で、
なにか虚しい感じがしていたり、何かが欠けていると感じていたり、無力感に押しつぶされそうだったり、
生きることそのものが苦しいと感じているならば、やはり一緒に疑ってみて下さい。
「気づき」って言うと、なんだか大それたものの様に
聞こえるかもしれませんが、まったく違います。
誰もが皆、気づきから離れたことなどありません。
本当です!
ただ、それがあまりにも当たり前で単純なことなので、
そうとは思えない人が多いだけです。
私達は、気づきの対象であるモノ、コト、人、状況などに
あまりにも価値や意味があると思い込んでいるので、
それらに囚われてしまっているのです。
「私」が、あらゆる対象であるモノ、コト、人、状況に気づいていると勘違いしているので、「私」はそれらが欲しくなったり、抵抗したりします。
こうして、幸・不幸の物語が始まります。
そして、どの物語の中にも、同じだけ「気づき」はあります。
悟り・真我・非二元も、対象として「私」がそれを知り、気づこうと欲し、
探究が始まります。
私が何かに気づいていると思い込んでいる限り、この探究は終わりません。
何か、おかしいと感じませんか?
実は、気づいているのは、「私」ではないとしたら?
今、どんな状況であれ、何を考えていようとも、気づいている全ての対象を
気づこうとしなくても、すでに気づいている何かがありませんか?
しばし、それに意識を合わせてみて下さい。
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吾唯足知
禅寺の庭には、よく写真にあるような蹲踞(つくばい)があります。水が溜まる様に掘られた中央の正方形の四方には、文字が彫られているのが見えます。
四つの文字は中央の正方形を共有し、上から時計回りに、「吾唯足知」と読む事ができます。
僕は、とてもお洒落なデザインに感心してしまい、いつか自分もこの蹲踞をお庭に置きたいと思っています。今のところ、置けるようなお庭はありませんが。(笑)
吾、唯足るを知る
これは、禅のとてもシンプルな教えです。ここで大事な所は、唯(ただ)ということです。
唯(ただ)とは、何の理由も原因もなくという意味。
足るを知るのに、なんの理由も原因もいらないよと、教えてくれている。
ひらたく言うなら、ただ幸せでいてごらん!それに気付いてごらんなさいと、教えてくれていると思います。
幸せになるのではありません。すでに幸せでいることに気付くということ。
私達は、それに気付いていないから、足りない、まだ足りないと自分の外にばかり意識を向けて、幸せになる原因をモノ、コト、人、状況に求めてしまうのですね。
ここから、人生のあらゆるドラマが展開されて行きます。得られる事も得られない事もある。たとえ得られても、すぐに失う恐れがやって来て、幸せは永続しない。だから、次々と求めざるを得なくなる。得られなかったら、更に不幸ですね。
インドの最古の聖典ヴェーダンダの知恵にも、同じ事を伝えている教えがあります。
理由のある幸せは、形を変えた不幸である。
ん〜っ、まさに。人生長く生きている人ほど、身にしみて分かる様な教えです。
さて、どうしたらその理由のない幸せ、唯足りていると感じられるのだろう?と、考えてしまいましたか?
どうしたら?という問いそのものが、すでに理由を探しているのです。
ですから、思考に着いて行っても、吾唯足るを知れません。
思考の流れに着いて行かず、逆にその源流を辿ってみて下さい。
焦らないで、何度でも何度でも、源へと意識を向け直して下さい。
するとそこに、こんこんと静かに湧きいずる幸せの泉があります。
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