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「私」が、なんであれ何かの対象に気づいていると、当たり前のように思っていませんか?

対象とは、モノ、コト、人、状況、そして思考や感情も含めて、認識できるすべてのことです。

 

本当は、そうではなかったら、どうしますか?

 

悟り、真我、非二元を探究しているならば、是非自分自身でこの気づきの基本的な構造を

疑ってみて欲しいと思います。

 

さらに、悟り、真我、非二元に興味ないとしても、確固たる「私」がいて人生を生きている中で、

なにか虚しい感じがしていたり、何かが欠けていると感じていたり、無力感に押しつぶされそうだったり、

生きることそのものが苦しいと感じているならば、やはり一緒に疑ってみて下さい。

 

「気づき」って言うと、なんだか大それたものの様に

聞こえるかもしれませんが、まったく違います。

誰もが皆、気づきから離れたことなどありません。

本当です!

ただ、それがあまりにも当たり前で単純なことなので、

そうとは思えない人が多いだけです。

 

私達は、気づきの対象であるモノ、コト、人、状況などに

あまりにも価値や意味があると思い込んでいるので、

それらに囚われてしまっているのです。

 

「私」が、あらゆる対象であるモノ、コト、人、状況に気づいていると

勘違いしているので、「私」はそれらが欲しくなったり、抵抗したりします。

こうして、幸・不幸の物語が始まります。

そして、どの物語の中にも、同じだけ「気づき」はあります。

 

悟り・真我・非二元も、対象として「私」がそれを知り、気づこうと欲し、

探究が始まります。

私が何かに気づいていると思い込んでいる限り、この探究は終わりません。

 

何か、おかしいと感じませんか?

 

実は、気づいているのは、「私」ではないとしたら?

 

今、どんな状況であれ、何を考えていようとも、気づいている全ての対象を

気づこうとしなくても、すでに気づいている何かがありませんか?

 

しばし、それに意識を合わせてみて下さい。

 

 

 

IMG_0549_2たったの一呼吸、無心になってみましょう。

私達は、一日中呼吸をしていますが、呼吸だけを意識することはほとんどありません。

呼吸が苦しい時か、ヨガ、気功、瞑想などの修練をしている時くらいでしょうか。

私達の内面、マインドの状態と呼吸とは、密接に連動しています。

なので、禅では坐禅を組む時、心を鎮める為にまず調息(息を整える)をします。

また、修練としての呼吸法には、様々な方法があります。

 

しかし、たったの一呼吸の中で、実はどれだけの事が起きているのか、どれだけの可能性とパワーが秘められているのか・・・知っていますか?

 

 

そういえば以前、14歳の少女がネットいじめをなくす為の斬新なアイデア、「Rethink」というシステムを開発したと、ネットのニュースで見たことがあります。

それは、送信者が人を傷つけるようなワードを入れて送信する時に、「本当に送りますか?」というメッセージを表示するシステムです。実験の結果、なんと93%の若者がその投稿を取りやめたといいます。

送信ボタンを押すか押さないか、そのほんの数秒、正に一呼吸で、その後起きうる様々な人生ドラマが変わり得るという事です。

逆に言うなら、それほど人はほぼ無意識に思考し、行為しているということが分かります。

過去の記憶に基づいて刺激ー反応し続ける機械のようなものです。故に、ほぼいつも同じ様な思考、行動パターンが繰り返される訳です。

 

貴方がもし、このような繰り返しの無意識パターンに飽き飽きしているのならば、全く新鮮な経験へと歩を進めたいのならば、無心の一呼吸の練習をし始めてみて欲しいと思います

 

同じ繰り返すのならば、いつもの思考ー行動パターンよりも、無心の一呼吸を繰り返し練習して下さい。(笑)

何かふと迷った時、何かを選択する時、ちょっとした違和感を感じた時など・・・そのまま考え続けないで、ストップし、ただ呼吸と共に無心になってみるのです。無心は、時間の長さは重要ではありません。大事なのは深さです。だから、一呼吸で充分です。

しかし、初めは無心といっても浅いので、何も分からないでしょうし、ピンと来ないでしょう。それでいいのです。気にせず軽い気持ちで、ふと思いついた時に繰り返し練習して下さい。そのうちにどんどん深くなって行きます。

 

例えて言うなら、海で泳いでいて、波立ち続けている海面に顔を浸けることから初めて、徐々に海の底に向かって素潜りする練習をするようなイメージです。ちょっと潜った程度では、表面の波の力にもって行かれますが、深く潜れば潜る程、波の影響はなくなり静寂になって行きます。

Deep Blue のジャック・マイヨールのように、ある領域を越えると、もう海面に戻って来たくなくなるでしょう。

 

静寂を越えた、沈黙のみ!

 

沈黙に留まる者さえいません。

 

 

 

 

 

 

吾唯足知blog

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禅寺の庭には、よく写真にあるような蹲踞(つくばい)があります。水が溜まる様に掘られた中央の正方形の四方には、文字が彫られているのが見えます。

四つの文字は中央の正方形を共有し、上から時計回りに、「吾唯足知」と読む事ができます。

僕は、とてもお洒落なデザインに感心してしまい、いつか自分もこの蹲踞をお庭に置きたいと思っています。今のところ、置けるようなお庭はありませんが。(笑)

吾、唯足るを知る

これは、禅のとてもシンプルな教えです。ここで大事な所は、唯(ただ)ということです。

唯(ただ)とは、何の理由も原因もなくという意味。

足るを知るのに、なんの理由も原因もいらないよと、教えてくれている。

ひらたく言うなら、ただ幸せでいてごらん!それに気付いてごらんなさいと、教えてくれていると思います。

幸せになるのではありません。すでに幸せでいることに気付くということ。

私達は、それに気付いていないから、足りない、まだ足りないと自分の外にばかり意識を向けて、幸せになる原因をモノ、コト、人、状況に求めてしまうのですね。

ここから、人生のあらゆるドラマが展開されて行きます。得られる事も得られない事もある。たとえ得られても、すぐに失う恐れがやって来て、幸せは永続しない。だから、次々と求めざるを得なくなる。得られなかったら、更に不幸ですね。

インドの最古の聖典ヴェーダンダの知恵にも、同じ事を伝えている教えがあります。

理由のある幸せは、形を変えた不幸である。

ん〜っ、まさに。人生長く生きている人ほど、身にしみて分かる様な教えです。

さて、どうしたらその理由のない幸せ、唯足りていると感じられるのだろう?と、考えてしまいましたか?

どうしたら?という問いそのものが、すでに理由を探しているのです。

ですから、思考に着いて行っても、吾唯足るを知れません。

思考の流れに着いて行かず、逆にその源流を辿ってみて下さい。

焦らないで、何度でも何度でも、源へと意識を向け直して下さい。

するとそこに、こんこんと静かに湧きいずる幸せの泉があります。

IMG_7748今、ここで、君の身体の只中で、           ただ幸せでいてごらん。

「ただ」とは、何の理由もなく               ということ・・・

だから、幸せでいるための原因を           探したり、作ったりする必要はないんだよ。

もし君が、幸せでいられない理由で頭がいっぱいなら、それこそ、

何の理由もなく,ただ幸せでいることが出来ると知るチャンス。

幸せとはこうあるべき!とか、条件を付けた閉じた想いや望みは、

叶わないかもしれない。

でも、その想いの背後に完全に開かれた、とても静かで穏やかな幸せには、

いつでもどこでも、ふれることができる。

君が今、たった今、その気になればね!

ここでの大切なコツはね、ベリ〜ファースト! スピード感さ。

何故だかわかるかい?

でも・・・、だって・・・と、幸せに抵抗する思考があっという間にやって来て

君を理屈でガンジガラメにしてしまうからさ。

思考よりも速く、たった今、ただ幸せを感じちゃったもん勝ちなんだ。

だから、理由を考えたり引っ張り出してるひまなんてないのさ。

失敗しても心配いらないよ。毎瞬、毎瞬、チャンスだらけだから。

あまりにもチャンスだらけだから、いつでもいいや〜って思ってしまい、

いつまでたってもやらない!っていうのが、逆説的わなだっていう事を

君は知っているかい?深いだろ〜?!

だったら、君はいつやるの? 今でしょ!(笑;古いけど本当のこと)

 

「ただ」こそ、幸せを開く鍵だって分かったかな?

 

どうやって?と問う前に、ただ幸せでいてごらん。

上手くできない!と言う前に、ただ幸せでいてごらん。

幸せになりたいと言う前に、ただ幸せでいてごらん。

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何故、こんなにも生きづらいのだろう?

生きる事が、どこか虚しい。

人間関係に行き詰まっている。

死の恐怖を越えて、平安に生きるには、どうしたらいいのだろう?

何の恐れもなく、安らかに喜びと共に生きることは、本当に可能なのか?

などなど・・・

すべての葛藤と苦しみは、源をたどるとただ一つの理由に行き着きます!

それは、「私」とは何か?を実は知らないという事です。

もっと言えば、知らないという事を知らずに、一度も疑う事なく当然のように心身を「私」として生きているが故に、様々な葛藤と苦しみを味わうのです。

答えを知る必要はありません。

ただ、「私」とは何か?を実は知らないのだ!という事を

心を開いて素直に受け入れてみることです。

そして、この問いと共に心を鎮めて行くと、静かなる心という贈り物を 皆さんは自分の

内面に発見するでしょう。

静かなる心とは、何があっても、どんな状況でも、ゆとりがあり、落ち着いている

静寂の意識のことです。

これがどういう事なのか、分かりますか?

もし分かったら、それはささやかな贈り物どころではない!

ということに、きっと驚くでしょう。

ですからどうぞ、この静かなる心という贈り物を受け取って下さい。