(続)気づいているのは、「私」ではない。

 

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なんであれ何かに気づく時、気づく側が主体としての「私」、気づかれる対象が客体としてのあらゆるモノ、コト、人、状況。

 

主体と客体が分離していて、主体が客体に気づき、認識しているというのが、二元対立の世界観です。私達は、何の疑いもなくこの世界観の認識構造の中で生きています。

 

非二元の世界観では、この主体と客体は分離していません。よ〜く観察したら明らかですが、主体と客体は、一体として同時発生しています。主体と客体のどちらかが消え去れば、もう片方も消え去ります。

 

主体に与えられた感覚のネーミングが「私」、そして客体は森羅万象、無数のネーミングが与えられています。

 

ある時、主体の「私」は、覚醒・悟り・真我・非二元を概念として認識します。つまり、覚醒・悟り・真我・非二元を分離した客体として認識してしまったという事です。

 

そこから、私は覚醒したい、悟りたい!という欲求が生まれて探求が始まります。

 

中には、最初に何らかの一瞥体験があって、一体自分に何が起きたのか?と思って、 探求が始まるケースもあります。

 

真実が知りたい、真の自由が欲しい、無条件の愛を感じたい、神と一体になりたい、等々・・・

 

どんな言葉を使おうと同じです。

 

何が同じかというと、主体の私が、客体のそれに気づいて、それを求めるという構造です。

 

まずは、何を求めているのであれ、この認識の構造の中に囚われていることを明瞭に見抜いて下さい。

 

この構造自体が夢であり、幻想なのです。

 

この構造の中にいながら、覚醒!夢から覚める!というのは、実はまだ、夢から覚める夢を見ているに過ぎないという事です。

 

そこで、探求の角度を変えてみて下さい。

 

「私が、何かに気づいている。」から、「気づきが、私感覚(主体)と何かの対象(客体)を同時に生じさせている。」へ。

 

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