気づいているのは、「私」ではない。

 

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「私」が、なんであれ何かの対象に気づいていると、当たり前のように思っていませんか?

対象とは、モノ、コト、人、状況、そして思考や感情も含めて、認識できるすべてのことです。

 

本当は、そうではなかったら、どうしますか?

 

悟り、真我、非二元を探究しているならば、是非自分自身でこの気づきの基本的な構造を疑ってみて欲しいと思います。

さらに、悟り、真我、非二元に興味ないとしても、確固たる「私」がいて人生を生きている中で、

なにか虚しい感じがしていたり、何かが欠けていると感じていたり、無力感に押しつぶされそうだったり、

生きることそのものが苦しいと感じているならば、やはり一緒に疑ってみて下さい。

 

「気づき」って言うと、なんだか大それたものの様に

聞こえるかもしれませんが、まったく違います。

誰もが皆、気づきから離れたことなどありません。

本当です!

ただ、それがあまりにも当たり前で単純なことなので、

そうとは思えない人が多いだけです。

 

私達は、気づきの対象であるモノ、コト、人、状況などに

あまりにも価値や意味があると思い込んでいるので、

それらに囚われてしまっているのです。

 

「私」が、あらゆる対象であるモノ、コト、人、状況に気づいていると勘違いしているので、「私」はそれらが欲しくなったり、抵抗したりします。

 

こうして、幸・不幸の物語が始まります。

 

そして、どの物語の中にも、同じだけ「気づき」はあります。

 

悟り・真我・非二元も、対象として「私」がそれを知り、気づこうと欲し、

探究が始まります。

私が何かに気づいていると思い込んでいる限り、この探究は終わりません。

 

何か、おかしいと感じませんか?

 

実は、気づいているのは、「私」ではないとしたら?

 

今、どんな状況であれ、何を考えていようとも、気づいている全ての対象を

気づこうとしなくても、すでに気づいている何かがありませんか?

 

しばし、それに意識を合わせてみて下さい。

 

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