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まずは、自分の内面にも青空が広がっていると感じてみましょう。

それだけでも、清々しく心地よくなります。

その内面に広がる青空に、次々と想念の雲が湧いて来て、風に運ばれて消えて行きます。

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青空に退いて、広がって寛いでいるならばポジティブな雲であろうと、ネガティブな雲であろうと、ただ湧いて消えて行くだけです

青空は、いちいち雲の形や色や大きさ、そして高さなどを判断して、文句を言ったりはしません。

 

しかし、私達のほとんどは、青空(純粋意識の広がり)ではなく、雲(思考、気分・感情、記憶、イメージなど)が私であると錯覚しているので、雲の形や色や大きさが気になって仕方が無いのです。

なので、ひっきりなしに雲を判断し、批評し続けています。もしも雲が本当に私そのものならば、私という存在は全く一貫性のない変化し続ける、いいかげんな奴だと思いませんか?(笑)

 

でも、それが本当に「私」でしょうか。「私」とネーミングされているものが、本当は何を指し示しているのか、本当は何のことなのかを一度本気で見直してみることです。

 

やってみれば分かりますが、本気で見直すというのは、実は容易なことではありません。あっという間に、様々な雲が湧いて来て、私を誘惑し、連れ去ってしまうからです。(笑)

見直そう〜と、力が入って頑張ってしまうと、逆に雲だらけになってしまって、疲れるだけです。

 

本気で見直すコツは、逆説的なのです。やろう〜と頑張るのではなく、なるべくリラックスすることです。もともとリラックスという言葉の語源は、「後ろに退いて広がって寛ぐ」という意味だそうです。

 

そこで、なるべく練習、実践して欲しいコツは、

雲の後ろに退いて、さらに退いて、青空に思いっきり広がって、そして寛ぐことです。

 

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見上げればいつも青空があり、その時々の雲の表情があるように、

 

あなたの中にも内面の風景があり、そこにも青空が広がっています。

 

空の表情が決して止まらず、刻々と変わって行くように、
内面の風景の空模様も変わり続けています。

あなたが、私だと思い込んでいる、私の思考や気分・感情、そして記憶など、
内面に認識できる全てを 今、雲だと思ってみて下さい。

最近の秋晴れのように、雲のない青空は存在しますが、

 

空がない雲は存在できません。

 

考えるまでもなく、当たり前の事ですよね。

 

あなたの内面の風景も、全く同じです。

 

思考や感情などの雲がない青空(意識空間)は存在しますが、逆はあり得ません。

目には見えないけれども、確かに在るこの青空を
変わり続ける思考の雲の背後や周りに感じてみましょう。

 

本当のあなたは、変わり続ける雲ではなく、青空なのです。

 

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小学校4〜5年生の時、商店街の上に自宅があり、ある時2階の窓から商店街を行き交う人々をただ眺めていました。

買い物をして店先でやり取りする人々を見ながら、世間話をしている人々の雑多な声をただ聞いていました。

そしてふと見上げると、青空と静かに流れる雲達がただそこにありました。

すると突然、考えるでもなく一つの疑問がはっきりと浮かんで来たのです。

 

 

「この世界は、何故あるのか? 世界があるとは、どういう事なのか?」

 

 

その疑問と共に、しばらくの間、世界という現実味というか臨場感がとても希薄になったのを今でもはっきりと覚えています。

 

世界が在ることそのもの、私が在ることそのものの不可思議さの一撃でした。

 

大人になって行くにつれ、この在ることそのものの上で起こっている、あらゆる思考、行為、出来事に私達は魅了されて行きます。

 

何か、とても大切なものが忘れ去られて行っている事も知らずに・・・

 

今、あなたが、人生の途上で何かが欠けている、何か虚しいと感じているのなら、       その答えは、在ることそのものの不可思議さの中に、きっとありますよ。

 

頭は空っぽにして、心をおもいっきり開いて、この不可思議さにしばし寛いでみて下さい。

 

 

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小さい頃から、将来やりたい仕事はなぜか決めていました。

お医者さんになりたいという気持ちは、ずっと変わる事なく、迷った事は一度もありません。

親は電気屋さんをしていて、親戚にも医者はおらず、動機を尋ねられるといつも答えるのは、幼い頃から母が身体が弱くてよく入院をしていた事や、自分自身が13歳の時に肝臓を患い3ヶ月以上入院していた事です。

でも本当は、生まれる時にすでに決めてきていたと感じています。

しかし、医者になってからは、迷いと葛藤の連続でした。

今振り返ってみると、外科医の時には身体という物質的現実と向き合って来ましたし、心療内科医の時には人間の心と身体の複雑な相関関係に向き合ってきました。そして、西洋医学を離れてからは、人間の心身のより精妙な仕組みや構造の不思議さにのめり込んで行きました。

潜在意識、無意識を含めて、心の何層にも渡る因果の謎解きは、とても面白く感動的でもあり、夢中になっていました。

おそらく、この世界は、いくらでも次から次へと私達を魅了させ続ける謎解きを提供し続けることでしょう

この世界とは、私の外に広がる物質世界と私の内に広がる心の世界の両方です。

 

私達は、この世界に善かれ悪しかれ魅了され続けています。

私の内側,外側という世界に魅了され続けている!

ポジティブだろうがネガティブだろうが、魅了されていることに変わりはありません。

世界のあらゆる内容から、ちょっと目を離して、私の外側と内側という世界に魅了されている事に気づいてみて下さい。

うまくいけば、ちょっと不思議な感覚になれると思います。

 

ウサギ、マイケル2

そろそろ前回の続きを話さないといけませんね。

思考ウサギを黙らせるバカボンのパパ・ポイントのお話しでした。

ちなみに、僕はウサギは好きです。(笑)

写真の彼は、マイケルです。よろしくお願いします。

思考ウサギが悪い訳ではありません。ウサギはただ役割を果たしているだけです。

 

それを放っておけず、着いて行ってしまうから、葛藤したり苦しくなったりするのです。

 

さて、思考ウサギはポジティブとネガティブの両極を行ったり来たりしています。どちらに長く留まるとか、跳ねるパターンに違いはあれど、大差ありません。

ポジティブな方にいる時はネガティブは隠れており、ネガティブな方にいる時はポジティブは隠れています。どんなに早く飛び跳ねても同時に両極にいることは出来ません。

バカボンのパパ・ポイントだけが、両極を同時に見切っているのです。

 

思考ウサギは、どんなに頑張っても、このポイントに降り立つことは出来ません。

しかし、ちょっと見方を変えて、隠れている極にも実はウサギがいて、隠れているから見えないだけだとしてみましょう。

次に、あえてポジティブ側にいるウサギとネガティブ側にいるウサギを両方表に出してしまうのです。

そして、どちらもよし!と言って、両方とも肯定してぶつけてしまうのです。

 

 

例えば、何かが欲しいと思っている時に、それが得られてもよし!得られずともよし!と言ってみるのです。

何かの問題があって解決したいと思っている時に、解決してもよし!解決しなくてもよし!と言ってみるのです。

悟りたいと頑張ってもがいている時に、悟ってもよし!悟らずともよし!と言ってみるのです。

 

どうです?(笑)

 

ふざけるな〜!って頭は怒りだしますよね。もしくは、ナンセンスだと言って冷笑しますか。はたまた、弱者の逃げ口上、戯言でしょうか。

一つ、確かな事は、頭でこれをやったら決して納得できないし、意味をなしません!

 

しかし、これを頭ではなく、違う場所でやってみて下さい。もう一度!

 

その場所は、あなたのハートです。

 

ハートなんて分からないというなら、胸の辺りでいいですからね。感じずらいなら胸に手を当てながらやってみるといいと思います。ハートに意識を合わせるのです。

 

ハートにしっかりと意識を合わせてから、両極の思考ウサギをあえて表に出して、どちらもよし!すべてよし!と言ってみて下さい。

そして、何が起こるのかをただ見守ります。

 

頭に戻ってしまいそうなら、呼吸に意識を合わせてハートに留まっていて下さい。

 

分からなくても、それもまたよし!とハートで言ってみて下さい。

 

あなたの意識が、頭にいる時とハートにいる時の違いが、少しでも感じられたならそれで充分です。後は、何度も色々な思考ウサギを捕まえて練習してみて下さい。

 

そのうちに、バカボンのパパ・ポイントに完全に飲み込まれてしまいますから!(笑)

 

ブログ狸

天才バカボンのパパは、何といっても最強ですよね。

太陽が西から昇って、東に沈んでも、           「これでいいのだ!」

たとえ何が起ころうが、起こるまいが、          「これでいいのだ!」

あなたは、どうですか?

本気で、心の底からそう言えますか?

悟っていようと、迷っていようと、大差ない!

「これでいいのだ!」

どうです?最強でしょ?(笑)

 

さて、気づいているのは私ではないですが、思考してるのも私ではありません。

だから放っておけばよいのですが、なかなかそうはいきませんよね。

私は、べったりと思考に張り付いていますから、目が離せないんです。

よく観察していると分かりますが、思考はポジティブとネガティブの二極を落ち着きなく行ったり来たりしています。まるでシーソーの両極を行ったり来たりと飛び跳ねるウサギの様なものです。

飛び跳ねるパターンや、どちらのサイドにより長くいるか程度の違いはあれど、大差ありません。

思考ウサギは、どう頑張ってもシーソーの両極にしか飛び降りれません。シーソーのバランスを支えている真ん中の支点には居られないのです。

ちょっと実験してみて下さい。何であれ、ポジティブな事とネガティブな事を全く同時に考えてみて下さい。

 

どうですか?  できましたか?

どんなに速く切り替えても、時間差ができてしまいますよね?

シーソーの両極を支えている真ん中の支点の一点は、両極を同時に見切っている特異点なので、 思考ウサギはこの特異点には飛び降りれないのです。

ちなみに、この特異点のことを僕は「バカボンのパパポイント」と呼んでいます。

今日は、このバカボンのパパポイントへの落下方法をお伝えします。

 

えっ?!落ちたくない?

分かりますよ〜。落ちたらまともに生きて行けなくなりそうですもんね。(笑)

バンジージャンプより怖いですよ。命綱が切れちゃうかもしれないので。

 

なので、覚悟をするために、少し間を空けた方が良さそうな気がして来ました。

 

しばらく時間を取って、このまま思考ウサギにべったり張り付いたまま、ポジティブとネガティブの両極を行ったり来たりし続けたいかどうかを感じてみて下さい。

 

それではまた。

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なんであれ何かに気づく時、気づく側が主体としての「私」、気づかれる対象が客体としてのあらゆるモノ、コト、人、状況。

主体と客体が分離していて、主体が客体に気づき、認識しているというのが、二元対立の世界観です。私達は、何の疑いもなくこの世界観の認識構造の中で生きています。

非二元の世界観では、この主体と客体は分離していません。よ〜く観察したら明らかですが、主体と客体は、一体として同時発生しています。主体と客体のどちらかが消え去れば、もう片方も消え去ります。

主体に与えられた感覚のネーミングが「私」、そして客体は森羅万象、無数のネーミングが与えられています。

ある時、主体の「私」は、覚醒・悟り・真我・非二元を概念として認識します。つまり、覚醒・悟り・真我・非二元を分離した客体として認識してしまったという事です。

そこから、私は覚醒したい、悟りたい!という欲求が生まれて探求が始まります。

中には、最初に何らかの一瞥体験があって、一体自分に何が起きたのか?と思って、 探求が始まるケースもあります。

真実が知りたい、真の自由が欲しい、無条件の愛を感じたい、神と一体になりたい、等々・・・

どんな言葉を使おうと同じです。

何が同じかというと、主体の私が、客体のそれに気づいて、それを求めるという構造です。

まずは、何を求めているのであれ、この認識の構造の中に囚われていることを明瞭に見抜いて下さい。

この構造自体が夢であり、幻想なのです。

この構造の中にいながら、覚醒!夢から覚める!というのは、実はまだ、夢から覚める夢を見ているに過ぎないという事です。

そこで、探求の角度を変えてみて下さい。

「私が、何かに気づいている。」から、「気づきが、私感覚(主体)と何かの対象(客体)を同時に生じさせている。」へ。

 

 

 

 

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「私」が、なんであれ何かの対象に気づいていると、当たり前のように思っていませんか?

対象とは、モノ、コト、人、状況、そして思考や感情も含めて、認識できるすべてのことです。

 

本当は、そうではなかったら、どうしますか?

 

悟り、真我、非二元を探究しているならば、是非自分自身でこの気づきの基本的な構造を

疑ってみて欲しいと思います。

 

さらに、悟り、真我、非二元に興味ないとしても、確固たる「私」がいて人生を生きている中で、

なにか虚しい感じがしていたり、何かが欠けていると感じていたり、無力感に押しつぶされそうだったり、

生きることそのものが苦しいと感じているならば、やはり一緒に疑ってみて下さい。

 

「気づき」って言うと、なんだか大それたものの様に

聞こえるかもしれませんが、まったく違います。

誰もが皆、気づきから離れたことなどありません。

本当です!

ただ、それがあまりにも当たり前で単純なことなので、

そうとは思えない人が多いだけです。

 

私達は、気づきの対象であるモノ、コト、人、状況などに

あまりにも価値や意味があると思い込んでいるので、

それらに囚われてしまっているのです。

 

「私」が、あらゆる対象であるモノ、コト、人、状況に気づいていると

勘違いしているので、「私」はそれらが欲しくなったり、抵抗したりします。

こうして、幸・不幸の物語が始まります。

そして、どの物語の中にも、同じだけ「気づき」はあります。

 

悟り・真我・非二元も、対象として「私」がそれを知り、気づこうと欲し、

探究が始まります。

私が何かに気づいていると思い込んでいる限り、この探究は終わりません。

 

何か、おかしいと感じませんか?

 

実は、気づいているのは、「私」ではないとしたら?

 

今、どんな状況であれ、何を考えていようとも、気づいている全ての対象を

気づこうとしなくても、すでに気づいている何かがありませんか?

 

しばし、それに意識を合わせてみて下さい。

 

 

 

IMG_0549_2たったの一呼吸、無心になってみましょう。

私達は、一日中呼吸をしていますが、呼吸だけを意識することはほとんどありません。

呼吸が苦しい時か、ヨガ、気功、瞑想などの修練をしている時くらいでしょうか。

私達の内面、マインドの状態と呼吸とは、密接に連動しています。

なので、禅では坐禅を組む時、心を鎮める為にまず調息(息を整える)をします。

また、修練としての呼吸法には、様々な方法があります。

 

しかし、たったの一呼吸の中で、実はどれだけの事が起きているのか、どれだけの可能性とパワーが秘められているのか・・・知っていますか?

 

 

そういえば以前、14歳の少女がネットいじめをなくす為の斬新なアイデア、「Rethink」というシステムを開発したと、ネットのニュースで見たことがあります。

それは、送信者が人を傷つけるようなワードを入れて送信する時に、「本当に送りますか?」というメッセージを表示するシステムです。実験の結果、なんと93%の若者がその投稿を取りやめたといいます。

送信ボタンを押すか押さないか、そのほんの数秒、正に一呼吸で、その後起きうる様々な人生ドラマが変わり得るという事です。

逆に言うなら、それほど人はほぼ無意識に思考し、行為しているということが分かります。

過去の記憶に基づいて刺激ー反応し続ける機械のようなものです。故に、ほぼいつも同じ様な思考、行動パターンが繰り返される訳です。

 

貴方がもし、このような繰り返しの無意識パターンに飽き飽きしているのならば、全く新鮮な経験へと歩を進めたいのならば、無心の一呼吸の練習をし始めてみて欲しいと思います

 

同じ繰り返すのならば、いつもの思考ー行動パターンよりも、無心の一呼吸を繰り返し練習して下さい。(笑)

何かふと迷った時、何かを選択する時、ちょっとした違和感を感じた時など・・・そのまま考え続けないで、ストップし、ただ呼吸と共に無心になってみるのです。無心は、時間の長さは重要ではありません。大事なのは深さです。だから、一呼吸で充分です。

しかし、初めは無心といっても浅いので、何も分からないでしょうし、ピンと来ないでしょう。それでいいのです。気にせず軽い気持ちで、ふと思いついた時に繰り返し練習して下さい。そのうちにどんどん深くなって行きます。

 

例えて言うなら、海で泳いでいて、波立ち続けている海面に顔を浸けることから初めて、徐々に海の底に向かって素潜りする練習をするようなイメージです。ちょっと潜った程度では、表面の波の力にもって行かれますが、深く潜れば潜る程、波の影響はなくなり静寂になって行きます。

Deep Blue のジャック・マイヨールのように、ある領域を越えると、もう海面に戻って来たくなくなるでしょう。

 

静寂を越えた、沈黙のみ!

 

沈黙に留まる者さえいません。

 

 

 

 

 

 

吾唯足知blog

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禅寺の庭には、よく写真にあるような蹲踞(つくばい)があります。水が溜まる様に掘られた中央の正方形の四方には、文字が彫られているのが見えます。

四つの文字は中央の正方形を共有し、上から時計回りに、「吾唯足知」と読む事ができます。

僕は、とてもお洒落なデザインに感心してしまい、いつか自分もこの蹲踞をお庭に置きたいと思っています。今のところ、置けるようなお庭はありませんが。(笑)

吾、唯足るを知る

これは、禅のとてもシンプルな教えです。ここで大事な所は、唯(ただ)ということです。

唯(ただ)とは、何の理由も原因もなくという意味。

足るを知るのに、なんの理由も原因もいらないよと、教えてくれている。

ひらたく言うなら、ただ幸せでいてごらん!それに気付いてごらんなさいと、教えてくれていると思います。

幸せになるのではありません。すでに幸せでいることに気付くということ。

私達は、それに気付いていないから、足りない、まだ足りないと自分の外にばかり意識を向けて、幸せになる原因をモノ、コト、人、状況に求めてしまうのですね。

ここから、人生のあらゆるドラマが展開されて行きます。得られる事も得られない事もある。たとえ得られても、すぐに失う恐れがやって来て、幸せは永続しない。だから、次々と求めざるを得なくなる。得られなかったら、更に不幸ですね。

インドの最古の聖典ヴェーダンダの知恵にも、同じ事を伝えている教えがあります。

理由のある幸せは、形を変えた不幸である。

ん〜っ、まさに。人生長く生きている人ほど、身にしみて分かる様な教えです。

さて、どうしたらその理由のない幸せ、唯足りていると感じられるのだろう?と、考えてしまいましたか?

どうしたら?という問いそのものが、すでに理由を探しているのです。

ですから、思考に着いて行っても、吾唯足るを知れません。

思考の流れに着いて行かず、逆にその源流を辿ってみて下さい。

焦らないで、何度でも何度でも、源へと意識を向け直して下さい。

するとそこに、こんこんと静かに湧きいずる幸せの泉があります。